平成14年9月22日 ツアーの見学内容
相模原支部 「昭和の遺産めぐり」 バスツアー 第一回目 |
バスをチャーターしての手作りツアー
出発 | 町田バスターミナル 7:30 出発 橋本駅南口 8:00 出発(合流) |
小田原 二宮尊徳記念館 |
敗戦までは、どの小学校にもあった二宮金次郎少年が薪を背負いながら本を読む銅像は勤勉のシンボルでした。貧農出身ながら治水、開墾を通じて農民の生活を向上させ、藩財政を次々と建て直した尊徳の実績、そして多くの師事崇敬した尊徳の報徳の思想と、勤勉の精神を学びました。 |
伊豆山 興亜観音 |
支那事変における上海、南京攻略戦(昭和12年)の最高責任者であった松井石根陸軍大将は、日支両軍に多くの戦死者を出したことを悼み、上海、南京から両軍の血まみれた土を取り寄せて、二体の観音像を制作されました。この観音像を安置したのが興亜観音であり、伊豆山(熱海市)の山腹に、昭和15年2月に開眼、大東亜戦争前に祀られた観音様です。 この興亜観音には日支両軍の戦没者が対等に祀られています。松井大将は東京裁判で、いわゆるA級戦犯として処刑されましたが、戦没者を悼む心の持ち主が虐殺命令などだせる訳がありません。アジア諸国の独立復興こそ松井大将の願いでした。 又、この興亜観音には、A級戦犯とさせられた7人の方々も祀ってあり、吉田茂元首相の筆になる「七士之碑」もありました。しかし、この碑を昭和46年12月に過激派が爆破し、3つに破壊されましたが、有志の努力により回復がなり、今回はその碑にも参拝することが出来ました。 松井大将が両軍を共に供養された興亜観音が、なぜ過激派の標的にならなければならなかったのか。日本の心、日本人の尊崇の念を集める所を破壊してしまいたい、所謂、反日思想に惑わされた感情によるものなのか。はたまた、日本人に多数のテロを繰り返す支那政府、中国政府を征伐した松井大将への逆恨みによる、中共の諜報工作員による過激派への諜報工作、反日洗脳の効果での暴発か、と、いろいろ考えさせられる見学でした。 私たち31人は、松井大将のお心になる興亜観音を心から参拝させて頂きました。 |
十国峠
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熱海・伊豆山から箱根へぬける道すがら、景勝地の十国峠へも寄りました。
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箱根 パール下中記念館
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パール博士は東京裁判でただ一人、日本は無罪と判決を下したインド代表の判事です。東京裁判は判事中、国際法の専門家はパール博士だけという、いい加減なものでした。「パール判決 : 日本は無罪」は国際法規として正しかった。 昭和27年10月、占領が解かれた後、平凡社の下中弥三郎は「眞理の裁き・パール日本無罪論」を出版、パール博士を日本に招待し全国に講演に回りました。パール博士は、連合軍による戦時宣伝デマゴーグが蔓延する日本について、「東京裁判の影響は原子爆弾の被害よりも甚大である。」と嘆かれた。 日本が東京裁判の呪縛から抜けさせるために努力された、パール博士と下中氏の業績を称える記念館、パール下中記念館を見学しました。その当時のお二人の努力の遺品がたくさん展示されてあり、展示物をみるにつけ、心に染みるものがありました。 |
箱根 ケンペルバーニー記念碑館 |
300年前にオランダ使節として来日したドイツ人博物学者のケンペルは、日本の美しさを讃え『日本誌』を著し、日本の自然の美しさ、珍しい動植物を世界に紹介しました。イギリス商人バーニーは後年その『日本誌』を読み、日本の自然のすばらしさに感じ入り、芦ノ湖畔に居を構えました。 今回は、バーニーがケンペルの『日本誌』の序文を引用して建てた碑文と、両者の顕彰碑を訪ねました。 |
帰着
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橋本駅南口 17:30 到着 町田バスターミナル 18:00 到着 |